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吉岡 洋 (京都大学 こころの未来研究センター特定教授)

 子供の頃は伏見区深草の下町で育った。その当時、家族で京阪電車に乗って四条河原町に買物に行ったりするのを、「京都に行く」と言っていたことを憶えている。自分たちが住んでいる場所も京都に違いないのにおかしいなと思ったが、「京都に行く」とは「街に出る」というようなことだったのだろう。けれども東京の住宅地に住んでいる人は繁華街に出ることを「東京に行く」と言うだろうか。「京都に行く」の「京都」はたんなる地名ではなくてひとつのイメージ、つまり京都の中の「誰もが〈京都〉として想像する場所」という意味だったのかもしれない。そしてそのイメージに合致する京都は中心部と、いくつかの観光名所に限られている。だから自分の住んでいる場所は京都市ではあっても「京都」ではなかったのだ。

 舞妓さん、祇園祭、清水寺などといったものがそうした「京都」のコアなイメージなのだろうが、そうした京都は本当は「よそさん」にお見せするための外向きの顔で、本当の京都らしさはどこかべつな場所にあると、「京都」の中心に住んでいる人々自身も思っている。そうした京都らしさのひとつは、中心と周縁部の「近さ」ではないかと思う。他の大都市から来た多くの人たちが京都について驚くことのひとつは、賑やかな繁華街からほんの2、30分で、のどかな田園風景や山の自然に触れることができるという点である。都会と田舎が互いにこんなに近い距離にあるのは、東京では考えられないことである。

 中心と周縁部、都会的な面と田舎的な面は、たんに距離的に近いだけではない。それらはあまりに近すぎて互いに排除することがなく、むしろ混じり合っている。京都は、田舎に対立する場所としての都会ではない。むしろ、京都全体が大きな田舎のようにも見える。こうした関係は、新しさと古さ、モダンと伝統との関係についても言えるのではないだろうか。両者は対立せず、複雑に入り組み反映しあっている。過去の中に未来があり、最新のモードが古い意匠から産まれる。二項対立が成立しない場所なのである。

 こうした特徴を可能にしているのが、サーキュレーション、循環という働きではないかとぼくは考えている。この事業で取り上げられた山科区、伏見区、西京区、北区、右京区という五つの区(ぼくはこれまでその中の三つに住んでいたことがある)は、中心部を囲むサークルを形作っているというだけでなく、長い歴史の中でそこを通ってモノや情報や人が運ばれ、都市と田舎、洗練と素朴、新しさと古さとを循環させてきたエリアなのである。その意味で、本当の京都らしさを支えているのはむしろそうした地域であると言うこともできる。

 「サーキュレーション」とはまた「リサイクル」と言い換えることも可能である。リサイクルとは一度使ったものを捨ててしまわずに、工夫をしてべつなやり方で使うということだ。そういうのを関西では「ケチ」ではなく「しまつ」と言う。現代では「エコ」だ、素晴らしいと褒められるかもしれないが、本当は「エコ」というのともちょっと違うのではないか、とぼくは思っている。「しまつ」というのは、モノの本来持っている命というか、可能性を無駄にせず使い切るということだ。それは、本当はピカピカの新品が使いたいのだけど環境によくないからガマンしてお古を使う、というようなこととは全然違う。使ったものを工夫してまた使うのは楽しいのだ。リサイクルとは地球のためではなく、それ自体が面白いからやるだけなのである。

 リサイクルということをもっと広い視野で考えてみると、それは人間がエコのために頑張ってやる善行などではなくて、そもそも生き物とは徹底的にリサイクルをしているものなのである。たとえば私たちの身体は生きていくのに必要な物質(たとえば水)を、体内で使っては何度も浄化し再吸収して、徹底的にリサイクルして使っている。生きるとは本来そういうプロセスなのではないかと思う。 新しいモノ好きの愚かな近代人は、サーキュレーション、反復、繰り返すことを一様に軽んじる傾向がある。変化、新奇性、オリジナリティにばかり過剰な価値を置き、それを見出せないと「たんなる過去の繰り返しだ」などとバカにする。これはぼくに言わせれば、救いがたく誤った世界観である。作家で批評家のチェスタトンは『正統とは何か』の中で次のように言う。人は変化を生命力の徴と考え、反復をその衰退と結びつけるが、それはまったくの誤りである。その証拠に、生命力に溢れた子供たちは同じ遊びを毎回嬉々として楽めるのに対して、生命力の衰えた大人だけが反復に倦み、変化と新しさを求めて呻吟しているではないか。

 生きることとは基本的に反復であり、循環である。芸術などの文化的活動も、生きることの上に成り立っているのだから、やはりその基本は反復であり循環なのである。もちろんそうした反復の過程で、思いがけない新しいものが生まれ出ることはあるが、それは結果であって、それを目指しても仕方がないのである。私たちが生きてきた近代という時代は、反復と循環を軽視する一方で、変化、改革、新たなものの創造といったことにばかり価値を置き、人々を変化へと駆り立ててきた。たしかにそうすることで元気が出た時代もあったのだが、今はそうした「変わらねば」という号令が、生きる上で息苦しい足枷になっていると思うが、人はまだそれに囚われたままである。会議で「別に変わらなくたっていいじゃないですか」などと発言したら袋叩きにあうのである。

 そうした意味で「サーキュレーション」は、この時代にたいへん重要なテーマだと思う。政治の世界でも文化の世界でも、今は革新派が古く硬直して見え、むしろ保守派が新鮮に見えるような現象がみられる。立場にとらわれる必要はないが、サーキュレーションというテーマは、本来の意味で保守的であるとはどういうことかを考える機会を与えてくれると思う。逆説的に聞こえるかもしれないが、本当に未来につながる態度とは、目新しいアイデアを捻り出そうと頑張ることにではなく、むしろ大人の賢さから少し離れて、いわばちょっと愚かになり、反復と循環の中に子供のような活力を回復することにあるのではないだろうか。